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ニチジョウ。

ニチジョウ。

天使の憂鬱

 学校近くの桜並木は満開で、現実味がなかった。
 薄いピンクで囲まれた世界。道路を挟んで向かい合わせた桜からのぞく空も淡い。すべて淡色で、生々しい色で着色されている現実とは別の空間のようだ。
 昔あこがれた絵本の世界に入り込んだような感覚で心が満たされていた。
私は、桜に心が引っ張られるように見入ってしまっている。思わずため息が出そうになって、感嘆の息は制服に似あわないと気づき慌てて口を結んだ。
 なんて綺麗。
 どれほどはやしたてられている美術品にもかなわないほど美しいと思った。初めて自然に心を奪われ、同時に、泣きたくなった。
 綺麗だと思うのに泣きたくなったのなんて初めてだった。


           *


 始業式は終わってくれたようで、教室に行く途中体育館を覗いたけれど誰もいなかった。校則違反の携帯電話を取り出して時間を確認する。お昼前、十一時。担任には明日怒られるとしても、鞄を置きっぱなしでは家に帰れない。おそらく教室に行っても誰もいないだろう。クラスメイトの非難の声を浴びずに帰れるのは幸いだ。もともと、それを狙っていたようなものだったのだけれど。
 まだ馴染みのない二年五組の教室のドアを開けて、出てきた声に面食らった。
「あれ、水嶋さん。早退したんじゃなかったの」
 電気もついていない教室に、長身で極端に髪の短い女子が立っている。外を眺めていたらしく、私を見つけるやいなや窓際から離れてこちらを振り向いた。口調が怒っている。私を責めているのだ。
「途中で保健室追い出されちゃったからさ、暇つぶししてた。坂本はこんな時間になに、好きな男子でも眺めてたの?」
 冷たい態度には挑発的な態度で応える。
 クラスメイトの名前もろくに覚えない私でも、彼女ぐらいは知っている。所謂女子バスケットボール部のヒーローだ。しかもいつも女子の群れの中から一人だけ頭が飛び出しているから余計目立つ。
 無愛想に答えると、思いのほか坂本は声をだして笑った。
「あはは、あたしが高校生なんか好きになると思う? おもしろいぐらい気持ち悪いこと言うね」
 さしこむ逆光で坂本の顔がよく見えない。本当におもしろいのか、皮肉でそう返しているだけなのかが読み取れない。
「わたし坂本の好みなんて考えたこともないけど、へえ。高校生は気持ち悪いんだ」
「気持ち悪いよ。並んだときに女の方がいかついなんて嫌じゃない?」
 自嘲、だろう。背の高さを言っているのだ。坂本に恩も義理もない私は、フォローのひとつもいれず軽く相槌を打つだけで自分の席を探す。ブルーの鞄が掛かっている机は私の机と坂本の机だけだったからすぐに見つかった。
「今来たばっかなのにもう帰っちゃうんだ」
「別に、もう用ないし」
 事実を告げる。坂本は何故か私の方へ歩いてくる。
「あたしさ、実は一時から部活あるんだよね」
「だから?」
 中身のほとんど入っていない軽い鞄を肩にかけ、その肩越しに坂本を見やる。長身の美女は、私が冷たい態度であるのにも関わらず人懐っこい顔で笑っている。よそよそしさのない笑顔。私は瞬間的に、彼女は世渡りが上手いのだろうと分析してしまった。
 坂本は片手を顔の前に立て、動作で謝りながら、他人も同然の私に友達のような顔を向けている。
「だから、お金貸してくれない? お財布忘れちゃって、お昼ご飯に困ってたんだ。そんで途方にくれて外を眺めてたっていうわけなんだけど」


                *


 ホームルーム三十分前の校門は日直の先生もいないし、登校してくる生徒もまばらだ。
 無人の校門を通り抜け、玄関に入る。校舎は校門から見て左右に分かれていて、そのどちらにも向かわず玄関を直進すれば体育館が目の前だ。今も朝練習の威勢のいい声が響いている。今日はバスケットボール部の割りふりらしく、体育館の中に坂本の姿を見つけた。
 体育着とは違う半そでにジャージをはいて、コートの中を走り回っている。フェイントらしきもののせいで動きが一括されてなく、予測不可能な蛇みたいな動きでボールを守っている。誰も追いつけないまま独走し、軽くシュートをかました。
 笑顔だった。
 私は坂本を知っていると言っても、壇上で賞状をもらう姿や集会でひとりだけ飛び出している頭しか知らない。あんな楽しそうな笑顔は初めて見る。もっと真面目で、厳しい人間かと思っていた。昨日の私に対する態度だって。
「絵里菜じゃん、おはよ。何してんの?」
 後ろからミカに声をかけられた。私は観察を中止する。
「おはよ、ミカこそどうしたの? 今日は早いね」
 返答の代わりに質問を返して、友人とともに教室に向かった。

 坂本はホームルームぎりぎりに教室にかけこんできた。教卓にはすでに担任の姿がある。その中で、彼女は堂々と目立ちながら自席へと向かう。私の場合、こんな風に注目を集めるくらいならホームルームが終わってから静かに教室に入っていくのに。授業中も、坂本は人気者に似つかわしい笑顔で愛想をふりまいていた。昨日私に見せたような冷たい口調は欠片も見つからない。
 昨日の自嘲や責めるような口調からして、私は相当嫌われていたのかな、という結論だけ手に入れた。
 坂本は私を嫌っている。そんな相手にお金を借りるなんて、相当困っていたのだろうか。けれど見た限り、坂本にはたくさんの友達がいる。わざわざ私なんにかに借りること、なかったのに。
 昨日は千円札を一枚だけ手渡し、さっさと逃げた。おかげで今の私の財布は小銭しか入っていない。給料日前は金欠になる法則ができてしまっているのだ。坂本は明日返す、と言っていたけれど、四時間目の今まで一向に返ってくる気配がない。
休み時間になったら自分から取りに行く、か。そうしないと昼食にありつけない。
私は早くもお金を貸したことを後悔していた。どうしてあんな、無駄なことをしたのだろう。
私は無駄なことは嫌いだ。何よりも。
授業終了の儀式である起立礼を終えて、教科書をノートにしまう。そしてつかさずドアに目を走らせて、坂本がまだ外にでていないことを確認した。窓際の一番後ろにいるはずの坂本を見ようと目を走らせ――すぐ傍にいた女子の赤いチェックのリボンを見つけてしまった。胸が目の前にある体験なんて初めてだ。顔を見れば、案の定その女子は坂本だ。
「ごめんね水嶋さん遅くなって。はい、ありがとう」
 にこやかに、上から見下ろされながら手渡された。
「いや。どういたしまして」
 こっちも鏡のように愛想笑いで返す。顔に貼り付けた表情とは裏腹に、手のほうは乱暴に坂本の手から紙幣を引き抜いた。
 驚くかと思ったけれど、そこはやっぱり大物らしく、坂本は愛想笑いを崩さない。その顔が能面みたいで気持ちが悪く思えてきてしまった。
「なに、まだなにか貸してたっけ?」
 財布を鞄にしまって、それを肩にかけて教室から出て行く気を坂本に見せ付けながら聞く。
「特には何も借りてないけど、用はあるよ」
「なに、用って。早くしてくれない、休み時間終わっちゃうんだけど?」
「早くはできないかな。休み時間全部使っちゃうと思うし」
「だからなに?」
 まわりくどい言い方に苛立って結論を急いだ。教室内の机がそれぞれグループで昼をとる人たちによって並べ替えられていく。もう授業中の机の配置図とは全く異なっている。中にはお弁当をつついている人も何人かいて、私は本当に焦っていた。購買にパンがなくなってしまう。食堂で食事を取るのは、邪魔な騒音が必要以上にうるさくてどうしても嫌なのだ。
「ここにふたり分のサンドイッチ弁当があります」片手にふたつ抱えていたのか、坂本の手にはパッケージにつつまれた白いサンドイッチが出現している。「ごはん食べる人いないんだったらさ、一緒にごはん食べない? 昨日のお礼におごるし」
 そう言われて、脳裏に浮かぶのは給料日前の自分の財布。さっき返された一枚限りの野口英世。それだけ。
快くオーケーの返事をだした。
「いいよ。でもその代わりに場所指定したいんだけど」
「どこ?」
 どうして嫌いな相手にお金を借りた上、そのお礼までするのか。それはそれで疑問だったけれど、何事もお金には勝てない。
「綺麗なとこ」
 言って、教室から外へと向かう。
「へえ、この学校にも綺麗な場所なんてあるんだ。意外」
 背中越しに聞こえる坂本の声にはあえて答えないでおいた。問題は、いかに近所の住民に見つからないように脱走して戻ってくるか、だ。


              *


 桜並木はやっぱり現実味がなかった。それは坂本が一緒にいても変わらない。空は、少し曇っている。
 私達は桜並木の横の歩道に陣取り、ガードレールに寄りかかってサンドイッチを食べることにした。昼間だからなのか、それとも元々人気がないのか、制服姿の私達をとがめる人は誰もいない。風が吹くたびに淡いピンクの花びらが舞った。
「止められるかと思ったのに」
 隣で平然と校則違反をしている坂本に喋りかける。
「ああ、先生たちに見つからなくてよかったね」
「そうじゃなくて、坂本が」
「は? あたし? なんであたしが止めるの」
「坂本って優等生なんじゃないの」
 今日の授業だって、ずいぶんと先生に気に入られていたように思う。頭だって、同じ学校に在籍していることが信じられないほど、私とは出来が違う。
 坂本は手に持っていたサンドイッチのかけらを口に放り込み、飲み込んでから「あたしが優等生なんかに見えてたんだ」と、気が抜けた声で応答した。
「どこをどう見たらあたしが優等生なんかに見えるんだか。やっぱり水嶋さんっておもしろいこと言うよね」
 おもしろいと言っている割に、顔は怒っているようにも呆れているようにも見える。とにかく、笑ってはいない。
「素直なだけだよ。全然おもしろくない。坂本だって笑ってないじゃん。坂本が優等生じゃないなら、わたし坂本に嫌われ理由がわからないんだけど」
真面目な坂本だからこそ始業式をサボった私が許せなかったのだろう。いくら私が周囲から嫌われていると言っても、何もしていないのに無差別に嫌われるほど嫌な人間ではない。他人との付き合いが無駄に感じるだけなのだ。
 坂本は眉を寄せた。
「なんの話? あたし別に水嶋さんのこと嫌いじゃないよ」
「じゃあなんで昨日わたしへの態度が悪かったのか教えてくれない?」
 食べかけのサンドイッチをほったらかしにして、坂本を睨みつける。
 坂本は驚いて、口に手をあてた。
「うそ。あたし、水嶋さんに嫌な態度とってた? ごめん。水嶋さんが悪いわけじゃないんだ。全然嫌いじゃないし。嫌いな人とご飯食べられるほど器用じゃないもんあたし」
 私には一応、坂本が演技で謝っているようには判断できなかった。演技で謝る人間はよく見かける。自分を押し殺して、好きでもない相手に嫌われないようにとご機嫌を取っている人間。愛想笑いと同等のそれは、私の嫌いな無駄な行為だ。
「嫌いじゃないなら益々わけがわからない。坂本って愛想良いのに、昨日の最初はかなり冷めてたじゃん。そういうギャップは良くないと思うよ」
「水嶋さんって物事はっきり言う人だね」
 坂本が苦笑する。
「さっき言ったでしょ、素直だって」
 そうだね、そう言って坂本は笑った。彼女のポケットから携帯電話がでてくる。折畳式携帯を開かないということは、時間を確認したのだ。
 携帯をポケットにしまって、坂本は手の中の空になったサンドイッチの箱を見つめながら喋りだした。
「昨日はね、実はフラれた後だったんだ」
「坂本が?」
「うん。だからたぶん、態度が悪かったのは八つ当たり。水嶋さんタイミングいいんだもん。フラれた決定打がさ、あたしの方が身長が高くてみじめになるからだっていう理由。ばかばかしいでしょ」
 また自嘲だ。ひきつった笑顔。
 ――気持ち悪いよ。並んだときに女の方がいかついなんて嫌じゃない?
 昨日坂本が言った、同じく自嘲の言葉が記憶からよみがえる。
「確かに馬鹿だね。相手の男が。こんな美人めったに食らいつかないだろうに」
 食べかけだったサンドイッチの残りを一気に頬張って、一般論を言ってやった。相手が誰だかは知らないけれど、どんなモテ男にしたってこんな美人に告白されるなんてイベント、ほとんどありえない。
 坂本は笑って「あはは、ありがとう」なんてかわしてしまう。慣れているのかもしれない。
 少し強めな風が吹いて、桜の花びらがたくさん降りかかってきた。あたたかい風が身体をなでながら、幻想の花を運んでいく。坂本の横顔とその背景は、ポストカードにでもできそうなほど整っていた。
「水嶋さんになじられるかと思った」
 ふいに、根拠もない失礼なことを言う。
「なんで」
「だって素直じゃん? だからあたし、八つ当たりしたことなじられるかと思った」
「なじってほしかったの?」
「ううん。ありがとう」
 全く意味がわからない。坂本は笑っている。フラれたことの独白を、聞いて欲しかったのかな、と少し思った。そう考えたら、今おごられているサンドイッチの意味もよくわかる。独白を聞いた代わりの報酬なのだ。前払いの。
 唐突に坂本の今朝の笑顔を思い出した。
「坂本って、生きてて楽しそう」
「そう? うん、実際楽しいけど。水嶋さんは楽しくないの?」
「さあ。よくわかんない。無駄だとは思うよ」
 人間なんて、いつかは死ぬ。死ぬために生きているなんてつまらないし、結局意味のないことだと思う。生きていても無駄。いつかは全部死んで消えてしまうのに、楽しんだり泣いたり、くだらない。楽しく生きるなんて、無駄な行為だと思う。
 サンドイッチの最後のひとかけらを飲み込んで、プラスチックの入れ物に蓋をした。その上に、桜の花びらは一枚、ほろりと落ちてきた。
「あ、ナイス着地」
 私より先に坂本が花びらに声をかける。言うべき言葉を奪われて、私は喋ることがなくなってしまった。
花弁から離れた花びらは薄っぺらくて、一枚だけではとても幻想的な桜並木の一部とは思えない。
「ここ、綺麗だね。あたし毎日来ようかな」
 坂本が上にある満開の花を見上げて言う。
「見つかったら怒られるよ」
「いいよ、綺麗なら。うちの学校桜しょぼくて綺麗じゃないんだもん」
 確かに、桜の木一本だけというのは寂しすぎる。しかもその桜の木は校庭に面していて、砂のグラウンドが丸見えなのだ。綺麗というには遠い。
「ねえ。なんで、綺麗なんだと思う?」
 花の隙間から覗く雲を見上げて、聞いてみた。
 なんで綺麗なんだと思う?
 なんで、悲しいんだと思う。
「散っちゃうからじゃない? 期間限定だから、綺麗に見えるんだよ」
 私の顔を見ず、すんなりと坂本は答えた。やっぱり頭の良い人間は、質問されてもすぐに考えが浮かぶものなのか。
 それとも、坂本も私と同じことを考えていたのか。
 どっちでもいいけれど。
「夕日と同じ原理?」
「うん。がーって一気に咲いて、それだけでまたすぐ終わっちゃう。終わってしまうっていう事実が、綺麗って感覚に繋がるんじゃないかな。昔の人ってさ、よく綺麗なものを儚いって言ってたじゃん。でもそれって逆で、本当は儚いからこそ綺麗なんだと思うよ。悲しいから」
 桜の花びらがひらひら舞って、濃紺の制服に映えていた。薄い桃色は、紺色と比べると清純な白にも見える。それは天使の羽根が散っているように見えた。
 そんな景色を見ていたら急に暴れだしたくなった。でもそんなことできるわけもない。代わりに空っぽの左手を力の限り握りしめた。
「生きてて、無駄とかそういうこと、思わない?」
 どうしようもなくて、それだけ、質問してみる。それ以外何を言ったらいいのか全く浮かばない。
 坂本はこっちを振り向いて、歯を剥き出しにして形のいい笑みをつくった。
「思わないよ、楽しいから。桜だって咲いた後に散っちゃうのは意味がないって思われるかもしれないけど、でも今は意味があるでしょ。少なくともあたしは、綺麗だって意味があると思う。どこかに意味があるんだったら、それは無駄なことじゃないと思うな」
 それは、見ている者がいるからこそ発生する意味だ。単独では測ることのできない意味だ。
 とっさに思った否定の言葉を飲み込んで、「そうかな」と曖昧な答えだけ返した。それ以上長い言葉はどうしたってでてこない。こんな時どうすればいいのか、私は知らない。
 坂本みたいに社交的だったら適当に答えられるのかな、と、意味もないたとえ話を頭の中でしてみる。答えはたぶん、イエスなんだろう。
 もう一度、風が吹いた。花が花弁からちぎれて、舞う。限られた命が終わる瞬間。散っていく。上を向いた坂本の横顔は美しくて、綺麗だった。
 涙で目が濡れて、景色が少しだけ歪んだ。






end


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